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「平穏死」という選択 続き [書籍]

石飛氏の著書『「平穏死」という選択』の続き。

なるほど、と思った言葉。

「そもそも認知症という言い方自体が、病気という扱いです。
以前は、年老いて記憶や認識力があいまいになった人を「惚け」と言いました。
中略 「惚け」という状態はけっして病気とはとらえられていませんでした。
加齢による「惚け」の場合は、世の中の瑣末なことを超越して、
人生のステージを一つひとつ昇って到達する天国に近いところにあります。」

認知症という言い方は、なるほど病気扱いだ。
年をとったら、認知症になるのではなく、普通に惚けていくのだ。
それは、だんだん天国に近いところへの階段を昇っているのだ、
という考え方は、とてもうれしい。

本の最後の方にも書いてあるが、
死は怖いことではなく、自然なこと。
人生を一生懸命生きてきて、
使命を終えて永遠の休息を与えられること。

「平穏死」を迎えるためには、
誰がそれを決断するかという問題があるらしい。
この時期になっていると、本人は判断する能力がないことが多いらしい。
だから、判断力があったときの本人の意思?家族の意思?
医師が決定する?ということが問題となるということだ。

また、医師が何もしないことが「不作為の殺人」となることを避けるための、
法律がどうなっているのか、という問題もあるらしい。

それについては、石飛氏の仲間の
黒田弁護士とその仲間たちが研究してくれている。(p.145)

刑法199条にポイントとなる条文があるらしい。
「自然の死期に先立って、他人の生命を絶つこと」が
「人を殺す」ことになるらしい。
だから、
「自然の死期」よりも先立って他人の生命を断絶しなければ、
殺人罪にはならない、ということだ。
この「自然の死期」というのは、死の瞬間ではなく、
死にむかってのある期間であるという解釈ができる。
とても高齢になって、いつなくなっても大往生という年齢なら、
常に、「自然の死期」の中で生きているということになる。

法律用語で書いてあるので、わかりにくいけれど、
「平穏死の位置付け」は平穏死の要件を満たせば、
医師の医療行為であるとして、正当業務行為になり、
違法性が阻却されて、犯罪が成立しないと考える、
ことができるんだそうだ。

先に書いた「自然の死期」なども含む
12の「平穏死の要件」を黒田弁護士とその仲間が考えている。

こういう風は、徐々に吹いているようで、
2012年6月、日本老年医学会が
高齢者の終末期における胃ろうなどの
人口的水分・栄養補給について新たなガイドラインを発表したらしい。
安易に胃ろうをするのではなく、口からの摂取が可能かどうかを
十分検討すること、というように方向を変えた、ということらしい。

この1冊を読み終わって、
高齢者の生き方についての考え方が変わりつつあること、
また、社会制度についても潮目が変わったということがわかった。
それは、私にとってはいい方向への変化で、
自己決定が尊重され、「平穏死」できる世の中になるだろうということだ。

だから、何よりも「自然の死期」においても、
自立して生活できるように、
私も、今からいろいろ計画して実行していこう。

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